ラスト<たいやき>

こんにちは。ここ最近、自分がもうすぐ大学を卒業することへの実感が少しずつ湧いてきている<たいやき>です。

 

先日、私の所属する音楽系のサークルで、最後の行事である卒業コンサートがありました。当日まで「最後っていう感じがしない!」とへらへら笑っていましたが、後輩からプレゼントや感謝のことばをもらい、いままで当たり前のように過ごしてきた場所との別れを急に実感しました。

 

後輩にもらったお花です。ちょうどいいサイズの花瓶がなかったのでグラスにさしました。ごめんね後輩たち……。

次は、4年間お世話になった大学からの卒業です。卒業式当日、晴れやかな気分で過ごせることを願うばかりです。

 

さて、本題に入ります。私が書くブログは今回が最後なので、卒論の執筆を振り返ってみたいと思います。といっても、端から端まで振り返ってしまうと超大作のブログが出来上がってしまいそうなので、卒論執筆を通して学んだことについてお話しします。

 

結論からいえば、学んだことは「物事を考えるために必要な道具を蓄積させることの重要性」です。私が気付いたというよりは、先生のアドバイスによって気づかせていただいた、というほうが近いです。

 

私は卒論の執筆中、幾度となくわからないことに直面して書く手が止まりました。テーマを明らかにする方法がわからなかったり、調査結果からうまく考察を展開できなかったり、様々です。そんなとき、私はとにかく「どうしたらいいだろう」と自分の頭だけで考えてばかりでした。

しかし、少ない経験と空っぽの頭を使って考えたところで、適した答えが見つかるはずはありませんでした。どう考えたらいいのかさえ分からないからです。もっとたくさんの本や論文を読み、勉強することで、疑問の解決につながる知識を蓄積させておく必要があったのです。この蓄積が、先に述べた「道具」です。道具をもつことで初めて問題解決のために考えることができるのです。

 

いま思えば、これは当たり前のことだったと反省しています。ですが、私は日ごろから蓄積を増やす習慣がありませんでした。必要になったらその都度調べるだけ。そんな風に急いで調べた情報はすぐに忘れてしまうし、実際にいま自分の道具にはなっていません。そもそも日ごろから道具を蓄積できるように勉強していれば、筆が止まることはなかったかもしれません。必要になってから蓄積を始めるのではなく、普段からインプットする習慣をつけることが大事なのだと、強く思いました。

 

これは、卒論執筆に限った話ではありません。たとえば冒頭でお話しした音楽系のサークルでも同じことが言えます。
活動の中で既存の曲をアレンジすることがあるのですが、それが圧倒的に上手なメンバーがいました。その人が手掛けるアレンジは私には思いつかないようなアイデアにあふれていて、ずっと「才能があるなあ。」と思っていました。しかしいまは「才能」なんて簡単な言葉で表現してはいけないように思います。なぜならその人は誰よりも多様な音楽を聴いて、どうしたらいいアレンジができるのかを知るために分析して、その知識を頭に蓄積する、という作業を繰り返すことで勉強をしてきたからです。自分が曲をアレンジする際にその知識を実践したり、自分なりに応用したりすることで、多彩なアレンジを実現しているのです。日ごろの勉強によって得られた道具が糧になっているのです。

 

きっとこの先、道具が必要になる場面がもっと増えると思います。考えるために必要な道具を日々蓄積させて、戦闘能力の高い社会人になりたいと思います。

 

1年間、つたないブログを読んでいただきありがとうございました。<たいやき>でした。

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